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昔の日記を発掘

片づけをしていたら昔の日記?が出てきました。まだ、ブログをやっていなかったのに、ちょこちょこ、読書や美術展の感想なんかを書き付けていたようです。発掘ついでにのせちゃいます。以下、昔の日記。

「『ターン』(北村薫著)を読み終えた。本は自分を映し出す鏡のようだ。主人公がおかれている立場はSF的で私とは似ても似つかない立場であるはずだけど、やっぱり自分の姿が見える。いい本なのだと思った。

私も「くるりん」の中にいるのかもしれない。友達や知り合いは、みんな子どもを生んでお母さんになっていく。まわりの時間は流れていくのに、私の時間だけ同じところをぐるぐる回る。そんな状景が目に浮かんだ。主人公が「くるりん」からぬけ出すことが出来たのは、時間の本質に気がついたからだった。人は案外頻繁に「くるりん」の中にとりこまれてしまうのかもしれない。

『ああ、毎日同じことの繰り返し』そんな風に感じて、流れていく時に対する新鮮な驚きを失い、感性を鈍化させてしまったとき、人はもう「くるりん」の中に入ってしまっているのだろう。もっと時間を愛したいと思った。」

ついでに、もう一本。

「フリーダ・カーロの絵を見に行った。子どもがいなくても母にはなれるのだと思った。夫への愛などといった、非常に個人的な感情でも、あれほどまでにつきつめていくと、普遍的なものへと変わるのだと驚いた。自分を掘って掘って掘り下げていけば宇宙にも辿りつけるのだ、そう思わせる絵だった」

うーん、昔と言っても、ほんの3、4年前なのに、文章が異様に若く感じます。誰にみせるというあてもなかったはずなのに、何故かまとめてるし。昔、自分が書いたものって結構恥ずかしいものだったのですね。もっと、恥ずかしいものもありましたが、とても、ここにはのせられません。

ということは、このブログも数年後に読んだら、そうとう恥ずかしいんだろうなー。

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暗黒舞踏

Dsc00153 即興音楽をやっているクラスの生徒さんが、また、何やら面白いことをやるとのことで、先生とクラスメイトさんたちとで連れだって、見に行ってきました。今回は暗黒舞踏とのコラボ。暗黒舞踏なるものを見るのは初めてでした。クラスの彼は、ピンクの棒を次々と投げつけられながら、コントラバスを演奏していました。うーむ、シュール・・・。
舞踏と言うよりも、無言劇に近い感じ。先生のお話によると、暗黒舞踏というのは、天へ飛び立つような軽やかなダンス(バレエのような)ではなく、地に近い、泥臭いものなのだそうです。身にまとう衣装も決して華やかなものではなく、むしろ質素で、中には泥にまみれたぼろ雑巾のようなものさえありました。動きも、軽やかさからは程遠く、全身で何かの重みに耐えているような、そんな印象を受けます。バレエのプリマが天使だとすれば、暗黒舞踏のダンサーは餓鬼のようにみえます。でも、地を這いずる餓鬼のような姿なのに、時折ふっと仏様のような表情があらわれるんですね。本当の神々しさや悟りみたいなものは、こんなふうに醜く、地を這いずりまわった後でしか出てこないものなのかも、などと考えながら踊りを見ていました。

暗黒舞踏の第一人者、大野一雄さんは残念ながらいらっしゃいませんでした。もしかして踊ってもらえるかもというお話しだったので楽しみにしていたのですが・・・。なんと言っても101歳というご高齢ですからねー。かわりに息子さん(同じく舞踏家)が大野一雄さんをかたどった人形でパフォーマンスをして下さいました。すかさずパチリ。それがこの写真。

3時開演だったのですが、終わったころにはすっかり日が落ちていました。夜の横浜は綺麗ですね。しばらく見ないうちに、ますますデートスポットらしくなっていました。しばらくぶらぶらしてから、クウィーンズスクウェアによって、みんなで中華を食べて帰りました。一緒に行ったクラスメイトさんがとてもお話上手だったので、先生からいろんなお話を聞きだすことができ、楽しかったです。訳すスピードの話や、推敲のことなどといった有益情報も。先生が訳文を推敲される過程の、赤が入った生原稿を見せてもらう約束もしてしまいました。(クラスメイトさんがお願いされていたので、私も便乗させてもらいました。)ラッキー。これは勉強になりそう。

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前回の復習

1 やっぱり前へ
「女が鏡を壁に投げつけたが壊れずに落ちた。」という意味の一文があったのですが "without breaking"「壊れずに」を「落ちた」の前に持ってくることに、何故か違和感を感じてしまいました。たぶん、「壊れた」ということは「落ちた」後でないと分からないじゃないかってところが引っかかっていたんだと思います。でも、「落ちたが、壊れなかった」というように後ろに持ってくると、「壊れなかった」という事実が妙に浮き上がってしまい、なにか意味があるような感じになってしまいます。悩んだ挙句、後ろの持ってきてしまいましたが、やっぱり前に入れてしまったほうが、さらりと流せたなあと反省。どちらにも違和感があるなら、より違和感の少ないほうを選択すること。

2 状況に合わせて接続詞も変える
"lay with her eyes closed, the lids fluttering" 具合が悪くて寝ているのか、たぬき寝入りか、では同じ文章でも訳し方が違ってきます。たぬき寝入りなら、「目は閉じ、まぶたは震えている」ではなく「目は閉じているが、まぶたは震えている」というふうに、逆接の接続詞をつけるべきところ。

3 違和感を感じているならなんとかする
 "full half-glass of Scotch"「たっぷり半分(スコッチを注ぐ)」としてしまいました。自分でも違和感を感じていたので、glassをコップではなくタンブラーにして容量を大きくしてみたものの、努力の方向が見当違いでした。やっぱりたっぷりと半分は矛盾しています。たっぷりにこだわらなければ上手くいきました。

4 チャンドラーは台詞が命
  チャンドラー独特の表現はとっても訳しづらいけれど、チャドラーの味でもあります。なるべく逃げずにきちんときめること。特に台詞回しはチャンドラー最大の魅力のひとつでもある、とのお話しで、訳者作りだすくらいの覚悟で訳すべしとのこと。さらりと訳してばかりだと、気の抜けたビールのようになってしまいますよね。やっぱり小説は面白くなくちゃ。

5 日本的表現に注意
 無意識で時々、日本臭の強い言葉を使ってしまうことがあります。もっと敏感にならないと。掛け「布団」はやっぱり変ですよね。

6 辞書に縛られないで状況をよく考えてみる
  ホテルの警備員が、酔客の世話をし、部屋の戸締りをして出て行くシーン。客をベットに寝かせ、transom(辞書には「欄間 明り取り窓」という定義が載っていました)を開け、電気を消して出て行くのですが、なぜ窓を開けたのかが良く分かりませんでした。わたしは廊下の明かりを取り入れて寝るときの寝明かりにするためかと考えたので「明り取り窓」としましたが、そもそも廊下から明かりを取るのは変じゃないか、共用廊下に面した窓からでは部屋の中まで明かりは届かないのじゃないかというところまで考えが及びませんでした。もっとよく想像してみること。先生は「換気用の上窓」とされていました。他にも換気用と考えた生徒さんが何人かいらっしゃいました。うーん、まだまだ考えが浅いなー。

7 肝はどこに
  "One lighted door still stood open" 前回出てきた部屋のドアがまだ開けっ放しだったわけですが、この一文が言いたかったのは「一部屋だけ明かりがついている」ということ。前文が「廊下にはひとけがなかった」である事を考えても、そう訳す方が自然。その文章の肝がどこにあるのか考える。

8 繰り返さない工夫
"Trombone music came from it softly-but not softly enough for 1:25 A.M."
softlyが繰り返されるので、なんとかしようかと、「トロンボーンの音が静かに聞こえてくる。だが一時25分という時間を考えると充分に騒々しかった」こんなかんじで、「静か」⇔「騒々しい」という逆の言葉で訳してみたりしたのですが、結局、この文章の場合、同じ言葉で受けるほうが面白い気がして「トロンボーンの音色が静かに流れてくる。だが、~という時間を考えるととても静かとはいいがたい」としてしまいました。先生はやはり、逆の言葉を使い繰り返しを避けていらっしゃいました。他にも、「~という時間を考えれば見過ごすことはできない」というように、全く別の言葉でうまくかわしているかたもいらっしゃいました。

9 語順
 原文どおりの語順だと、「男は安楽椅子に身体を投げ出していた。ひじの辺りには冷えたグラスが置かれていた。男はトロンボーンで円を描く様に吹いていた。トロンボーンの上で光が踊っていた」だったのですが、男が椅子に座りながらトロンボーンを吹いているという一連の動きが「冷えたグラスが置いてある」という一文に、邪魔されているようだったので、わたしは邪魔にならないよう最後に持っていきました。ただ、そうすると次の段落(その動きを主人公が見つめているというシーン)とのつながりが悪くなってしまいます。先生は前に持っていくことで解決されていました。

10 省略
 with a queer, half-admiring, half-contemptuous expression.直訳だと「半ば賞賛するような半ば軽蔑するような奇妙な表情で」というところですが、半ば賞賛するような半ば軽蔑するような表情は充分に「奇妙」も言い表しているので省略してOK。一語一語に縛られない柔軟な訳を。

11 主観によりすぎる表現に注意。もっと意識する。
 かすかに自分でも違和感を感じていましたが、「息を思いっきり吸い込み」という表現は三人称主語の場合にはすこし主観的すぎる。もっと言葉に敏感になること。

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ありがとう、ハリー

読み終わっちゃいました。ハリーポッター。あー楽しかった。子供のころ、日が落ちているのも気づかず、、明りもつけないで本に読みふけっては母にしかられたものですが、なんだか、そのころを思い出してしまいました。大人になると、そんなふうにのめり込める本に出会うのは難しいものです。ありがとう、ハリー。私にたくさんのものをくれて。おかげで仕事に遅刻もしたけど。出会えてよかったよー。

最終巻だけあって最後まで、息をつかせぬ展開。中身もギュッと詰まっている感じ。クモの巣のように複雑に張り巡らされた伏線が、すべてきっちりとフォローされていて、綿密な計算を感じます。昔の児童書にありがちな勧善懲悪には陥っていないところもうれしい(前半は分かりやすい勧善懲悪でしたが。低年齢向けだったからか?)。父親のジェームスは、ヒーローどころか、ちょっと悪ふざけの過ぎるお調子者だったりするし、賢者そのものにみえるダンブルドア先生にも、おびえる子供ような、弱い部分があったりする。意地悪で無感情にしかみえないスネイプ先生にも意外な一面が・・・。(そういう意外性に女性は弱いんですよねー。ちょと泣きました。ネタばれになるので詳細は割愛)。

最終巻ではハリー以外のキャラが大活躍。とくに、すっかり脇役だとばかり思っていたネヴィルくんの活躍ぶりには目を見張るものが。小さいころはあんなに弱虫だったのにねえ、と自分が育てたようにしみじみしたりして。

思い起こせば、ハリーポッターを読み始めたのは、ちょうど翻訳のクラスに通い始めたころでした。感慨深いなあ。一冊の洋書も満足に読み終えたことがなかった私が、初めて読みとおせた洋書でした。やっぱり、おもしろいと思えることが一番の牽引力になってくれるんですね。単純に面白いっていうのも偉大だなー。

でも、もう続きはないのかと思うと魂がぬけたような気分。次の洋書は何読もう・・・。

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朝時間

ときどき、ブログにお邪魔している、ちぇぶさんときらきらぼしさん(以前こちらにコメントをいただいたこともあります。その節はありがとうございました)のまねっこをして、「朝時間」を始めてみました。このブログの右側に開いた窓、これが、「朝時間」というホームページにリンクしていて、そこで朝、今日はどんな一日にするか宣言するんです。2週間ほど前からはじめていたんですが、続くかどうか自信がなかったので、しばらく様子を見ていました。どうやら、習慣として定着しそうなので、ブログにものせることにしました。

「今日は何々をするぞ」とひと言自分に宣言するだけの、実にシンプルな行為なんですが、これが意外といい感じ。もやもやとした一日がなんとなく形になるというか。朝、ひとこと宣言をすると、ちょっとしゃきっとした気分にもなれます。達成できたかどうか、「ふりかえり日記」をつけるようになっているのもいいですね。なんとなく、昔夏休みの宿題に書かされた日記のようで、懐かしい感じも・・・。ブログに書くまでもない、こまごました雑事をつけておくのにもよさそう。いい備忘録になりますね。

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前回の反省

1 対比
前回の範囲とまたがってしまったので意識しづらかったところですが、今回の冒頭部分の描写は、前回のラストの部分と対比になっていました。メインキャラクターと、その他脇役との対比。かなり酔っているメインキャラとそれほどでもない脇役、ひと目を引く外見のメインキャラと、特徴のない脇役。対比が際立つよう描き分けること、同等の質、同等の重さの表現で、対比になるようにすること。

2 比喩
 「カササギのように……preenしている(女)」という表現がありました。preenには「羽つくろいする。着飾る。得意がる」等など、いろんな意味があります。どれをとればいいか。この文章の前後を見ると、一貫して動きを描写している部分でもあり、また、カササギが黒い地味な鳥であることを考えると、「着飾った、派手な」といった方向の訳は候補から外れます。私は、この女性が黒いパジャマ姿だったので、「着飾った」は避け、身振りや動きもあらわすのではないかと「気取った」を選びましたが、誤解を招く中途半端な表現でした。「気取った」というと、「派手な」にも近いニュアンスが出てしまいます。
また、「カササギのように」という比喩が、日本人にとって効果的でなければ、とってしまうのも手というお話でした。それから、「カササギのように」という比喩が出てきたなら、せめてカササギがどんな鳥かくらいは調べること!

3 動作と状態 語順

 Back and forth in front of them, strutting, trucking, preening herself like a magpie, arching her arms and her eyebrows,bending her fingers back until the carmine nails almost touched her arms, a metallic blonde swayed and went to town on the music.
長くて訳しづらい一文です。
わたしの訳は「男達の前では、カササギのように気取った女が、見せびらかすように身体をくねらせ踊っている。眉を吊りあげ、弓のようにしなった腕に深紅の爪が触れるほど指を反らし、目もくらむような金髪を振り乱して、音楽に身をゆだねている」

この後には、女の金切り声が鋭いこと、パジャマを着ていることといった、「状態」の描写が続きます。
ここは動作の描写と状態の描写を、動作は動作、状態は状態といった感じにまとめた方がいいと感じたので(交互になってしまうと動作の流れが止るので)、女を主語にして、一貫して「動作」として訳出しました。
本当は「腕がしなり、眉が~」というように、腕、眉を主語にしたいところだったのですが(そのほうがカッコいい感じがしたので)そうすると、「状態」になってしまい、次の一文が「動作」の訳になってしまうので、あきらめました。でも、先生のように、語順にこだわらず、中途半端な一文(a metallic blonde swayed and went to town on the music 「動作」)を前に持ってきていれば、「動作」と「状態」をまとめた上で、同時に、腕、眉を主語にする事も可能だったんですね。なるほどー、こういう手があったのか。原文の語順にこだわらず、主人公の目に映ったであろう順番で訳すという手。覚えておこう。

深紅の爪と輝く金髪は、色の対比(並列?)になってるのかなという気もしていたのですが(並べて訳した方がいいのかと)、それは考えすぎだったかな。

4 不自然な時は、逐一訳さない

ひとつひとつ訳すとしつこい台詞がありました。ざっくり意味を捉えて、不自然にならないように、適度に抜いて訳す。

5 読みたいように読まない

Her slipper caught Steve Grayce in the chest. He picked it out of the air,
やっぱり、この場合、サンダルはあたってるよねー。でも当たってない方が、カッコいいと思ったんだもん。宮本武蔵みたいで。ハードボイルドだしさー。なんて、ひねてみてもしょうがありません。自分の読みたいように読まない。冷静に次の台詞との関連も考えて訳すこと。それから基本的なことだけど、誰に向かって何を受けて言った台詞なのか、常に意識すること。思い込まないこと。

6 語感の違いにもっと敏感になること。妥協しない

毎回、反省してますが、今回は「おひらき」という言葉。そういえばこの言葉は、「お終い」の忌み言葉でした。警備員が騒いでいる客に「もうお終いにしろ」と怒鳴る場面だったのですが、忌み言葉の「おひらき」を使ってしまっては、へんに丁寧になってしまいます。 

それから、「女を小包のように小脇に抱えて走り出す」。原文が透けて見えるような直訳をしてしまいました。人を小脇に抱えるというのも、人を小包にたとえるのも違和感があります。「脇」「小荷物」に変えるデリカシーが欲しいところ。

7 実験失敗

 明かりのついた戸口があって、その前を素通りして、次に明かりのついた戸口に入る。というシーンがあったのですが、「次に明かりがついた戸口」という表現が重いというか、しつこいような気がして、ひねくり回していました。最初に明かりのついた戸口が複数あるように訳しておいて、ひとつめ、ふたつめとすれば「明かりのついた」をダブらせないですむかと思って実験してみたのですが(secondがあったので、原文には無いfirstを補って)、最初の明かりのついた部屋が、前出の部屋であることが分かりづらくなってしまいました。その情報を伝える方が、ここでは重要なことでした。細部にこだわりすぎて大きなことを見失っては駄目。失敗です。
 とりあえず、試行錯誤してどうしても上手くいかないなら、やはり原文どおりにするのがいいような気がします。ここのところ、原文からちょっと離れすぎてしまう傾向があるので、しばらく、原文よりに訳すように心がけます。

8 チャンドラー独特の言い回し

 チャンドラーの場合、造語をしたりして、辞書に載っていない言い回しを使うとのお話でした。作者の癖も知っておくのも、翻訳では大事なことなんですね。造語を生かし、チャンドラーらしさを出して訳すのがベストなのでしょうが、かなり高度なテクニックになりそうだなー。どうしても浮くようなら、流して訳すのも手ですが、その造語が後ろの方にも出てくるキーワードであれば、逃げるわけにはいかないようです。

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ちょっと本音を

おじさんから自費出版したという小説が送られてきました。所謂地方の名士で、お金は有り余っているらしく、なかなか立派な装丁の本です。昔、おじいちゃんの自伝小説の自費出版を手伝ったことがあって、素人の小説(手を入れてあげないと意味が通じないほどの文章でした 絵はとってもお上手だったのですが)に懲りていたので、気は進まなかったんですが、結構読めました。歴史小説です。昨日寝る前の1時間でいっきに100頁ほど読んだので、あと半分。早く読んで、感想を添えたお礼のお手紙を出さなければ~。

思いっきり持ち上げた感想文を書くはめになると思うので、ここでちょっと本音を。

良い点は、センテンスが短く、文章として読みやすいこと。人物描写がいきいきしていること。良く歴史的背景を勉強されていること。

ちょっとなあ、と思う点は、秀吉や信長といった大物の描写が、プロトタイプから抜け出ていないため新鮮みに欠けるところ。あとは、ちょっとよくばりすぎて、回想シーンにエピソードを盛り込みすぎているところ。主要人物ふたりの関係だけに絞って掘り下げた方が、焦点がぼやけないんじゃないかな。それから「うれしい」とか「美しい」等のような、そのものずばりの言葉を使って描写してしまうと、やっぱり文に深みがでない気がします。できれば使わずに「美しさ」や「うれしさ」を描写したいところ。

と、ここで書いてはみても、本人にはとてもいえません。お礼のお手紙には美辞麗句を重ねることになるんだろうなあ。たぶん。

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