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本が届きました 予定をたててみる

アマゾンから原書が届きました。さあ、スピードアップして読んでしまわないと。キャラが複雑に絡み合って物語が進行していくので、相関図を書きながら読んでいます。こんがらがりそう。

自分の担当部分の提出期限がだいたい分かったので予定を立ててみました。去年下訳したときに自分の作業スピードを手帳にメモっていたのですが、それが役に立ちました。しかし、それをもとに計算してみると、これは、もしや・・・・もう本格的に始めないとマズいのでは・・・?ここ1週間ほどかなりぼーっとしていたのですが、一気に目が覚めました。去年と違って単語の表を作らなくていいぶん、スピードは上がりそうですが、この作者、コミカルで凝った表現が多いので、推敲のほうにだいぶ時間を取られそうな予感がする。

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下訳

先生から新たに下訳の仕事を頂きました。先々週のあの狂乱の?飲み会の最中に言われたので、半信半疑だったのですが、シラフになってから原書データもいただいたので、これはほんとなのねーと。

今読み始めているところですが、先週からばたばたしていたのと、データの形だと意外と読みにくいのとで(アマゾンに本を頼みましたがまだこない・・・)なかなか進まない。電子辞書がテキストビューアになるので、データを入れて読んでいるのですが、ボタンひとつで単語が引けてしまうので、ついついこまごまと引いてしまい、スピードが出ないみたいです。今、役者がそろそろ出揃ったかなという段階です。あいかわらず濃いキャラばっかりだなー。面白くなってきそうです。子どもが出てくるのがいいな。先週までの授業の課題とうってかわってコメディなので、気持ちも切り替えないと。

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遅くなりましたが前回の復習

今回は、砕きすぎ。前回は硬すぎでしたから、毎回毎回やじろべえのように右端から左端へと大きく揺れております。でも、きちんと自分の訳と先生の訳、そして原文に向き合っていけば、その揺れ幅も少しずつ少なくなっていくのではないかと思って前向きに頑張ります。台詞はとくに原文から離れてしまっていますが、今回会話についてはあえて冒険したつもりなので、先生と違っていても落ち込まないことにします。でも、成功はしてないなー。
たっぷり時間があったおかげでいじりすぎてはしまいましたが、新しい試みも出来ました。訳文を作るときに、自分で問題点を感じる箇所にマークをつけていく方法です。今までは、ワードで赤く反転させたり、色ペンで色分けしたりしていたのですが、ワードの反転では何が問題なのか分かりづらいし、色ペンはペンを持ち変えるのがめんどくさい。「違和感マーク」、「舌足らずマーク」、「やりすぎ?マーク」など、思いつくかぎりのマークを作ってみました。原稿はかなりにぎやかになりましたが、マークだと印をつけるときに楽だし、ひと目でわかるのでチェックもしやすく、ひとつひとつ潰していけば取りこぼしもなくなりそうです。「やりすぎ?マーク」は今回あんまり役に立たなかったみたいだけど…。でも、あとから、ああ、やっぱりやりすぎだったのねーとチェックできるし、復習にも役立ちそう。改良を加えながら、しばらく試してみることにします。

・エッセンスまで抜いてしまわない
違和感を取り除こうとして原文のエッセンスまで抜いてしまう傾向があるので気をつける。(スパイシーな香りをいい匂いでかたづけてしまったり)

・ほとんど無意識に一段飛ばししているところがある
これは勉強したてのころはなかったこと。これってつまりこういうことだよねと自分で解釈してしまって、最初の原文寄りの正確な訳の段階をすっとばして、いきなり次の段階に飛んでしまっている。「風が砂ぼこりを舞いあげている」という文章を、いきなり、自分でまとめて「つむじ風」にしてしまったり、雲が北から西へ拡がり、空に低く垂れ込めるという情景を、「北から西へ徐々に拡がっていく(ほぼイコール)低く垂れ込める」と勝手に解釈してカットしてしまったり(冷静に考えればまったくかぶっていない)、過程を省略して結果で訳してしまったり。 とにかく丁寧に状況を想像すれば、何をやっちゃいけないかわかるはず。作者を無視しない。

・動作と状態
 雇い主に食事に招待され、主人公が、離れの自室を出るのですが、その後に、回想シーンなのか、自室のシャワーで身支度を整える描写が続いていました。「動作」で訳すと、時間が溯ってしまうような奇妙な訳に。わたしは、「シャワーで汚れを流し、服はあたらしいものに着替えてきた。」というように、過去の動作として訳し、矛盾を解消したつもりでいたのですが、そのために、なるべくやりたくなかった語順替えをしてしまいました。(本当は「シャワーで汚れを流し」、と、「服を替えてきた」の間は、「髪はまだ濡れている」という現在の描写が入ります。)この部分はすべて「状態」として訳すとうまく行くというお話でした。それも頭にあったのですが、次の「動作」の文章とうまくつながらないのが気になったのと、「(ぼくが今着ている)服は~のジーンズと~色のシャツ。」と訳すことに何故か違和感を感じてしまってやめてしまいました。違和感を感じた理由をよくよく突き詰めてみると、自分の着てきた服のことを細かく報告するような男の人が、なんか軟派でいや、という、単なる自分の好みの問題でした。(文章に対する好みでもなく、男性の好みだったところがますます間抜け)でも、意外とそういう個人的な好みを、正しい(?)違和感と勘違いしてしまっていることがときどきある気がします。今回それを自覚できてよかったです。混同しないようにしないと。
 次の「動作」の文章との断絶感については、段落を変えることで解消する手があるとのお話しでした。そっか、そういう手があるのですね。考えもしませんでした。

・今回の視点、目線 寝かせてみるといいかも
 毎回悩みの種の視点。今回は割合まともにすえることが出来たと思うけれど、主人公の視点に立ちすぎたきらいはあります。たとえば、
 雇い主が、木の扉と網戸の二重扉になっている裏口の戸を開けて、主人公を招き入れるシーン。素直に、「~は木の扉をあけ、網戸をひいた」とすればよかったところなのですが、木の扉が内側で、外側が網戸だから、木の扉が開かないと、雇い主の顔は見えないよねーと考え、「木の扉が開き、~(雇い主)は網戸をあけた」という感じで、木の扉が開いたところで初めて、雇い主を主語に立てるようにしてみました。うーん、ここは、文の大筋にはまるで影響しない瑣末な部分、いれるならもっとほかに力をいれるべきところがたくさんあった気が。それに、一文に主語が二つ(扉と雇い主)になってしまったので流れがスムーズではなくなってしまったかも。
 もうひとつは、「部屋のエアコンから冷たい空気が吹きだしている」という描写。これも、最初は素直にそうやっていましたが、自分は部屋のなかにいるんだから、自分を中心に据えて「空気は流れこんでいる」とやったほうがいいかしら?などと考え、書き換えてしまった。今読んでみるとやっぱりへんです。エアコンが熱い空気を冷やして出しているはずなのに、なんだか外の涼しい空気が(熱いのに)自然になかに流れ込んでいるような感じになっちゃってる。時間をおいて見てみるとよくわかります。視点、主語の問題は、寝かせて他人の目になって読むと分かりやすいかもしれない。自分が見当違いの配慮をしていないか注意。

 
・全体を頭に置きながら、部分を訳す
もっと、大きな視点でとらえるようにしないと。こりもせず毎回同じ反省してるなあ。どうしてこの段落が存在するのか、その段落が言いたいことを読もうとするようにはなったけれど、読み違えています。
雇い主に夕食に招かれた主人公、部屋に入ると、テーブルに食事が用意されているという場面。外は嵐(になりかけていた)だったので、対比なのかなと思い、一生懸命部屋の中の居心地の良さを強調していました。そっちに向けて色付けしていたので、描写もすべてプラス方向へ訳していましたが、舞台の土地柄や、この家が農場だということなど、全体の設定を頭に入れたまま訳すなら、「もてなしはもてなしだけれど、質素なもてなし」という方向へ訳せたはず。その場だけで読もうとしない。調べ物が甘かったのも読み違えた原因でした。イメージ検索など労を厭わずきちんとすること。

・しばらく繰り返してもいいことにする。
 前文に出てきた言葉などを繰り返さないように気をつけるあまり、不自然になっている箇所がところどころあります。意識しすぎないことにしよう。わたしの場合繰り返してもいいと考えるくらいでちょうどいいかも。

・訳したい方向へねじまげない
雇い主の女性が、主人公に笑いかけられて顔を赤らめるシーン。わたしは彼女が顔を赤らめた原因が主人公の笑顔だけではなく、その前の台詞にあるのかとおもい、主人公の台詞をすべて、彼女を喜ばせるような台詞として訳してしまったのですが、ここは作者がキャラクターをどう見せたいのかということをしっかり踏まえて訳さなければならないところでした。わたしの訳だと主人公は彼女を口説きにかかっている感じになり、作者の意図する、無垢な好青年という(少なくともこの段階ではそうみせたいはず)キャラクター像とずれてしまいます。細かいところを丁寧に訳していれば、どうしても彼女を喜ばせる台詞とはとれないところがあるのに気が付いたはず(「木も草もある」はどう見ても誉め言葉じゃない)。ちらっとはかすめたんだよな、違和感。はあぁ。この、ちらっとかすめるやつをどうやって捕まえればいいのか。つい、自分の好きな方向へ訳したいという欲にまけてしまいました。

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頭が働かない時は環境を

せっかくの週末でしたがハライタをおこしていたので、授業の復習、下訳の復習はゆるーく流すのみにとどめ、翻訳環境の整備に努めていました。

まずは、前回の飲み会の時に教えていただいた、先生が愛用されているというエディタをダウンロード。なんとなくインストールできたみたいだけど、今まで作ったテキストファイルがみんなこのエディタのファイル形式に変わってしまった。しまった。まだ使い方が分からないのに~。これはいやでもやりかたを覚えないと・・・。でも、縦書き表示も出来るし、色もつけられるし、なにより高機能なのに動作が軽いのがいいですね。今使っているパソコンはワードで100ページ近くのものを立ち上げると、身動きしなくなってしまうので(変換ひとつで何分も待たされてしまうありさま・・・)、これはうれしいです。

その次には、Jammingの導入。今頃ですが、パソコン上で辞書の串刺し検索を出来るようにしようと思って。これも動作が軽い。最近のアプリケーションはサイズが大きいものばかりだと思っていたけれど、こんなにスリムでも高性能なものがいろいろとあるんですね。あたりまえだけど、ほんとに串刺しできるのに感動!しかも、単語をクリックしただけで辞書引きできるし、使い方も直感的に分かる。なぜ今まで導入しなかったのか、後悔。こんなに簡単にインストールできるのに。

ただ、ザウルスにはいっていたジーニアスの辞書ファイル使いまわそうと思ったのに、読んでもらえなかったのが残念でした。やっぱりCD-ROMからじゃないとだめなのね。さっそくオークションで落札してしまいました。

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最後の授業 大荒れ

やってしまいました。まさかの朝帰り。ほかの先生のクラスでは、授業の後、朝まで飲みあかしたりするとは聞いていたし、このクラスでも昔はよくあったと聞いていましたが、「いやーみんな元気ねー、わたしにはできないわー」と人ごとのように感心していました。それが、自分で体験するはめになるとは・・・・・・。

翌日の仕事は、急遽、体調不良ということでお休みしてしまいました。(ごめんなさい、職場のみなさま 本当のことはとても言えない)

同居人はさぞかし怒ってるだろうとおそるおそる帰ったのですが、あまりのことに毒気を抜かれてしまったのか、それほどでもありませんでした。ただ、事あるごとにちくちくと嫌味が飛んできます。「おや、今日はお帰りなんですね?」とか、「へえ、今日はお仕事サボらなかったんだー」とか。「夜一人でこの部屋にねてるとやけに寒いんだよね」とか。くやしいけど、しばらくは頭が上がりそうにありません。まあ、しょうがない。朝帰りなんて、傍から見たら立派な不良妻だもの。ほとぼりが覚めるまでおとなしくしてるしかなさそう。

それにしても、なんだかすごい夜でした。先生に論戦をふっかける生徒がいるわ、その日の訳文を引っ張り出して反省会みたいなものを始めるひとがいるわ、生徒同士で熱い翻訳論が飛び交っちゃうわで、もう、なにがなんだかわけが分からない。でも、時々ふと耳に聞こえてくる話はやけに面白そうで、わたしも加わりたかったのだけれど、眠くて眠くて聞いているだけで精一杯。しかも、ほとんどつぶれていたので、あんまり記憶がない。もう少しお酒を控えておけば、覚えてられたのになあ。

でも、うれしかったのは、新人の生徒さんに先生と訳文が似ていると言われたこと。わたしの訳文を、手本にするために一番最初に見るんだとも言ってくれて、最近かなり自信喪失気味だっただけに、なんだかとても救われた気分でした。そういえば、自分も入ったばかりのころに、先輩方の訳が先生に似てるなー、うまいなーと思ったものでした。自分ではいっこうに前に進んでないような気がしますが、それでもちょっとは前進しているのかもしれないと思うと勇気が出ます。

飲みすぎと、寝不足で身体はがたぴしいっていますが、頑張って前に進もう!という活力をもらえた一日でした。

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アロマ

ときどきアロマを焚きます。

アロマはどんなにいい香りでも、ハーブティと違って飲めるわけじゃないし…とちょっと、物足りなくなっていた時期もあるのですが、いまは奥深いなーと思います。
匂いというのは、たいてい何かの付属物です。綺麗な花とか、おいしい食べものとか、においを発する主役たちのおまけみたいなところがあります。においを感じる鼻のほうも、いつもはちょっと日陰者扱いをされている気がします。綺麗な絵や花で目を楽しませ、おいしい食事で舌を楽しませ、耳だって、最近はアイポッドなんかあてがわれていい音楽で楽しませてもらっているのに、鼻だけは集中して楽しませてもらうことがあまりありません。おいしいものを食べた時なんかに、おこぼれをもらえるくらい。注目されるのは風邪を引いたときか、花粉症にかかったときくらいです。

その日陰者?にスポットライトをあてているアロマテラピーは、なかなかできる奴、というかんじがします。(香水も香りにヒューチャーしていますが、ちょっと違うかも。香水の方は、自分の感覚を楽しませるというよりは、人にアピールする感じ。内ではなく外に向いています)
嗅覚を司っているのは、脳のうちでも古い、原始的な脳なのだそうです。
太古では、活躍していたはずの嗅覚も、文明が進むにつれ脇役へと追いやられてしまっています。
そんな嗅覚を刺激し、楽しませてあげれば、生きるための根源的な力が活性化される、ということもなんだかありそうな気がします。

高校生のころ、源氏物語を漫画化した「あさきゆめみし」が好きで、繰り返し読んだものですが、あの時代の人たちはずいぶんと豊かな世界に生きていたものだなあと思います。あの本の主人公たちは貴族ですから、物質的に豊かなのはもちろんなのですけど、それ以上に、五感すべてをフル稼働して(ときには霊感まで稼動しているので六感か?)生活を楽しんでいるところが、実に豊かだなあと思います。
コミュニケーション手段は「ふみ」。しかも、情報をそのまま伝えるなんてやぼなことはせず、思いを歌にこめ、内容にあわせて撫子の花などに結びつけて送ります。ときには謎かけまでこめられていたりするので、読むのも書くのもかなり高度なテクニックが必要。歌が下手だとばかにされちゃったりする。
もちろん、鼻のことも忘れちゃいません。ろうそくや月の明かりだけで夜をすごしていたのですから、嗅覚も相当活躍していたのではないかと思います。着物に焚きしめた香の香りで人を判別する場面もありました。なかでも優雅なのは「香あわせ」。奥方やお姫さまたちが、それぞれ自分で香を調合し、その香りの高さを競いあう遊びです

どれも、今の社会じゃ忙しすぎてとてもやってられませんが、いいなあと思います。
時代が変わってどんどんデジタル化していっても、人間自体が変わるわけじゃない。五感が減って二感(デジタル)になったりするわけでもない。やっぱり、もてる感覚をすべてフル稼働して楽しむのが、人として、いきいきと生きていくためのコツなんじゃないかなあ、なんて、アロマを焚きながら思いをめぐらせておりました。

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最近のボキャビル 使わなくなったお道具たち

単語力をあげ、原書を読むスピードをUPさせるべく、以前メモリボという電子単語帳を買い、このブログでも紹介したことがありますが、いまはすっかり出番もなくなってしまいました。最近ボキャビルのために使っているのは、電子辞書についている単語帳機能です。メモリボだと、パソコンを立ち上げ、覚えたい単語を専用ソフトを使って入力し、メモリボ本体へ移すという手間がかかってしまいますが、電子辞書の単語帳の場合、もともと原書を読んでいてわからない単語は電子辞書で引いているので、あとは登録キーを押すだけですみます。昔は「出る単」のような単語専門の参考書を使って暗記しようとしていましたが、背景のない単語はすぐに記憶をすり抜けていってしまいます。ストーリーが背景にあると、単語も印象に深く残り、定着率もいい。というわけで、しばらく前から、その日原書で読んだ単語を、電子辞書で引いたついでに単語帳に登録して、すき間時間に見直すことにしています。これなら面倒なことはなにもないので、続けていけそうです。もっと早くから使えばよかったなー。

あたらしもの好きなので、便利そうなお道具はいろいろ試してみたくなるのですが、結局手間がかかる物は使わなくなるということが、最近ようやく分かってきました。スープメーカー、パン焼き器、ノートテイカー、使わなくなってしまったものは、野菜を刻まなければいけなかったり、材料を細かく測ってセットしなければならなかったりと、手間が余計にかかってしまうものばかり。ものぐさには向かないお道具たちでした。多少の手間はかかっても、それを補って余りある効果が得られるようなお道具(エスプレッソマシンとか、スキャナーとか)は続いているんですけどね。

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久しぶりにお絵かき

Save0004_2 スーパーでぶりっぶりの生命力あふれるトマトと目が合い、発作的に絵がかきたくなりました。トマトにあわせたいばっかりに、使う予定のないきゅうりとなすとかぼちゃまで買いこんで、押入れから絵の具セットをひっぱりだし…。完全な自己流ですが、心の中で勝手に師と仰いでいるのが、以前このブログでも紹介した、永沢まことさんです。

下描きせずに、対象物をそらで描けるようになるくらいじっーと見つめてから、いっきにペンで描きあげるのが永沢流。それにならって下描きはしません。これがやってみると気持ちがいい。したがきがないという緊張感もあるからか、ものすごく集中します。からっぽになれるのがいいですね。描いているときは目の前のトマトのことしか考えてません。

描いてみて思ったけれど、絵を描くのって少し翻訳に似ています。
迷いがあるといい線が書けないところとか、現物のトマトの色を見ないで、自分のイメージで強調してかいた方が、本物以上にトマトらしくなったりするところとか、筆のおきどころが難しいところとか。描くと、見ているだけのときよりも、ずっと深くトマトを体感できるところとか。どの世界も、究めようとすると、同じような道を通るものなのかもしれませんね。

はー、すっきりした。トマトの生命力をちょっとおすそ分けしてもらえました。たまに絵を描くのもいいですね。(←って、訳文はどうしたー。現実逃避か?絵を描くときの集中力が翻訳するときにも出せるといいのに)Save0005_2

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なんだか

最近大事なことを忘れていた気がする。早く上手くなりたいと気持ちばかり焦り、小手先の技にばかり目がいっていた。原文を味わう余裕がなくなっていた。

 そもそもなぜ、わたしは翻訳をやりたいと思ったのか。文章を書いていたかったからだ。子どものころから、何か気に入ったものや景色、心に残る強い体験があると、瓶につめるように、文章の中に封じ込めて大事にとっておいた。花や雲のように移ろいやすい儚いものたちも、花火のように一瞬で消えてしまう、そのときどきの感情や、辺りに漂う空気も、文章の中になら永遠に新鮮なまま閉じ込めておくことができる。10年、20年という時が経っても。蓋を開ければ、閉じ込めた時のままのすがたで、読み手の前にあらわれる。 

わたしはそんな文章の力に魅せられていたんだと思う。文章ならなんでもいいわけではない。情報を正確に効率よく伝えるための文章ではなく、想像力に働きかけ、読み手の中に、作者の創り出した世界を丸ごと再現することのできる文章。書いていたいのはそんな文章だ。だから、文芸翻訳をやりたいと思ったのだ。

それなのに、最近の私ときたら、作者の文章を切り刻み、分解し、分析してばかりだ。登場人物たちの息づかいが聞こえる豊かな世界を、無機質な情報の塊のように扱っている気がする。

 自分で書いていたときのことを思い出してみた。すうっと周りの音が消えていき、自分の創った世界の中へ沈んでいく。そこで海の音を聞き、木々のあいまを渡る風を感じ、星明かりを見る。頭まですっぽりと中にはまりこんで、肌でその世界を感じていると、登場人物たちが動きはじめる。

勉強をはじめたころ、翻訳と創作は似て非なるものだと思っていた。でも、今はちょっと違う。翻訳者は、思っていたよりもずっーと作者の側に近い。だとしたら、自分で書くように訳してみたらどうだろう。自分の創った世界に入っていった時のように、作者の世界に入っていく。そしてその中で、作者の創った世界を、吸い上げるように全身で感じる。深く読むのとはまたちょっと違う。受身で待っているのではなく、自分からなかに入っていって体感するのだ。

なんだか、ずいぶん抽象的な話になってしまったけれど、それが出来たら、登場人物たちの気持ちも、文脈も、少しは読めるようになるかもしれない(それとも激しい妄想訳になる?)、などと、つらつらと考える今日この頃でした。

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