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なんだか

最近大事なことを忘れていた気がする。早く上手くなりたいと気持ちばかり焦り、小手先の技にばかり目がいっていた。原文を味わう余裕がなくなっていた。

 そもそもなぜ、わたしは翻訳をやりたいと思ったのか。文章を書いていたかったからだ。子どものころから、何か気に入ったものや景色、心に残る強い体験があると、瓶につめるように、文章の中に封じ込めて大事にとっておいた。花や雲のように移ろいやすい儚いものたちも、花火のように一瞬で消えてしまう、そのときどきの感情や、辺りに漂う空気も、文章の中になら永遠に新鮮なまま閉じ込めておくことができる。10年、20年という時が経っても。蓋を開ければ、閉じ込めた時のままのすがたで、読み手の前にあらわれる。 

わたしはそんな文章の力に魅せられていたんだと思う。文章ならなんでもいいわけではない。情報を正確に効率よく伝えるための文章ではなく、想像力に働きかけ、読み手の中に、作者の創り出した世界を丸ごと再現することのできる文章。書いていたいのはそんな文章だ。だから、文芸翻訳をやりたいと思ったのだ。

それなのに、最近の私ときたら、作者の文章を切り刻み、分解し、分析してばかりだ。登場人物たちの息づかいが聞こえる豊かな世界を、無機質な情報の塊のように扱っている気がする。

 自分で書いていたときのことを思い出してみた。すうっと周りの音が消えていき、自分の創った世界の中へ沈んでいく。そこで海の音を聞き、木々のあいまを渡る風を感じ、星明かりを見る。頭まですっぽりと中にはまりこんで、肌でその世界を感じていると、登場人物たちが動きはじめる。

勉強をはじめたころ、翻訳と創作は似て非なるものだと思っていた。でも、今はちょっと違う。翻訳者は、思っていたよりもずっーと作者の側に近い。だとしたら、自分で書くように訳してみたらどうだろう。自分の創った世界に入っていった時のように、作者の世界に入っていく。そしてその中で、作者の創った世界を、吸い上げるように全身で感じる。深く読むのとはまたちょっと違う。受身で待っているのではなく、自分からなかに入っていって体感するのだ。

なんだか、ずいぶん抽象的な話になってしまったけれど、それが出来たら、登場人物たちの気持ちも、文脈も、少しは読めるようになるかもしれない(それとも激しい妄想訳になる?)、などと、つらつらと考える今日この頃でした。

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