« 2011年3月 | トップページ | 2011年9月 »

震災以来

今回はかなりのご無沙汰でした。あの大震災以後、初めて書くんだと思うと、何か気のきいたことを書かないといけないような、妙なプレッシャーもあったりして・・・
あの地震のときには、職場にいたのですが、一瞬、これで終わりかと思いました。今思えば大袈裟だけど、あんな揺れを経験したのは初めてだったので。結構やりたいこともやってきたし、しょうがないなー、せめて最期の時が痛くないといいけど・・・ああ、でも訳書が一冊もないまま死ぬのかー、等という思いがくるくると脳裏を駈け廻ったのを憶えています。私のまわりの人たちは幸い皆無事でしたが、そのあとも、原発事故とか、買占めとか、なんだか、真綿で首を絞められているような、息苦しい空気が続いていましたよね…。
原発のことも片付いたわけではないし、現状はそれほど変わってはいないのですが、ようやく(表面的には)元の生活にもどりつつあります。
でも、日本人の心のなかでは、何かが変わりつつあるように思います。今回の震災は本当にひどい災難でしたが、自分にとって何が大事なのか、改めて考え直すきっかけにもなった気がします。自分の命というものが、いつ絶たれてもおかしくない、儚いものだということに気づかされ、ちょうど余命を宣告されたときのように、自分の生き方というものを考えさせられたというか……。なんだか、大袈裟になってきましたが、ふと思い返せば、やりたいことも定まっておらず、コンピューター翻訳とか、契約書翻訳とか、いろんな分野を彷徨っていたあのころ、私の気持ちを定めるきっかけになったのも、手術という「災難」でした。ガンの患者さんたちと同室になり、いろいろと考えさせられました。隣のベットのひとが、自分と同じ卵巣のう腫だったのですが、手術の日、なかなか病室に戻ってこなくて、結局それがガンだったと聞いて、自分のおなかの中にあるものもそうなのではないかと、手術の前日は、不安で夜も眠れませんでした。本当にやりたいことを、後回しにしている場合じゃないんだと、身に沁みて思いました。それ以来、迷いが吹っ切れたというか、思いは自然と文芸翻訳一本に定まりました。何かの本で、そういったきっかけを「目ざまし」に例えているのを目にしたことがありますが、言いえて妙ですね。今年、お盆に帰省するひとは、例年よりもだいぶ多いのだそうです。大事な物はなにか。日本中に「目ざまし」が鳴り響いたのだと思います。
 五年程前に、「余命一年ならやりたいことリスト」というのを作ったことがあるのですが、ここ最近、妙に作りたくなって、あらためて作り直してみました。(きっと今度の「目ざまし」のせいですね)当時、流行っていた手帳術か何かの本で見て、なにげなくやってみたのですが、これは自分の価値観が、見事にあぶり出されるので、やってみる価値ありです。感動的な本を山ほど読んで、映画も山ほど見たい、心洗われる体験をしたい、そしてその感動を伝えたい。絵を描きたい、人の心に残る言葉を伝えたい等々…五年前と今と、ほとんど変わってはいなかったのですが、今回作ってみて分かったことが幾つかありました。まず、ポイントは感動だということ。感動というのはひとによって違うし、超個人的な体験に過ぎないのかもしれないけど、何かを見たり、読んだり、体験したりして感じることは、ほかのだれも代わりにできない、いわば「私」そのものなんですよね。だから、残された命があまりないと考えたとき、そこにこだわるのだと思います。(自分の命を継ぐ子供という存在があったら、きっとだいぶ違うんでしょうけど。)それから、リストにあげたもの共通点から、自分が本当にやりたいことというものも見えてきました。(絵にしても、小説にしても、俳句にしても、翻訳にしても、)どうやら、世界を自分の目で捉え直して、それを再構築したい、そしてそれを伝えたい……らしい。それさえ、しっかり押さえていれば、きっと軸がぶれることはないと思います。(といいなあ、願望込み。折りにふれて肝に銘じたいと思います)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年9月 »