送り火
ご無沙汰しています。
五月初旬、父が永眠しました。
4月の下旬に急変し、入院してから2週間、もう自宅に戻ることはできませんでした。
二週間と言葉にすると短いけれど、おおげさではなく、私たち家族には数か月にも感じられました。
ゴールデンウィークだったおかげで、ずっとそばにいることができたのは救いでした。
父は最後までとても立派でした。告知の時から、最後の時まで一度たりとも弱音を吐かず、一瞬たりともあきらめませんでした。最後の日の朝まで戦う気満々でした。
お父さんが戦国武将か何かで、わたしたち、殿の命令で動く兵隊みたいだったねと妹がいうくらい、父は、自分でどうしたいかが最後の最後までしっかりとあり、わたしたちは動けない父の手足になってその作戦を遂行すべく全力を尽くしました。
がんの末期は、正に転げ落ちるように状態が悪化します。トイレにたつことができなくなり、ベットで体を起こすこともできなくなり、しゃべることができなくなり、ペンが持てなくなり、水すら喉を通らなくなり、指も持ち上げられなくなり。。。一日一日恐ろしい勢いで変わっていくので、毎朝、父の病室に入るのがとても怖かった。
でも父は、何かできなくなるたびに悲観するのではなく、少しでも現状を改善しようとチャレンジし続けていました。からだを起こせなくなったら、ベットの枠にひもを結びつけて、ひもの端に取っ手代わりのボールをつけ、それをつかんで体を起こしました。寝返りが打てないせいで、ベッドがつぶれて寝苦しくなると、(ウォーターベッドだったので、自分がいつも寝ている側だけ沈んでしまい、背中に堅い部分が当たって痛かったようです)、ごみ袋に水をいっぱい詰めて重りを作り、ベットの片側に乗せて、自分が寝ている側が浮き上がるように調整していました。発明好きで、特許を申請するのが趣味のようなひとだったので、現状に甘んずることなく、少しでも現状をよくしようとつねに頭を働かせていました。直っていたら、きっと介護用品の特許をいくつか申請していたと思います。
負けん気の強さ、意志の強さも最後まで変わりませんでした。
一時意識不明になったときに、紙おむつにされてしまい、それをとても怒っていました。
意識を取り戻してももうポータブルトイレに腰を下ろすだけの体力はなくなっていたのに(そして、もう紙おむつをしているのだからその必要もないのに)、ベットの上を何十分もかけて移動し、意地でもトイレに行こうとしました。(結局ベッドの端まで何とかたどり着いたものの、立ち上がることはできませんでした)
水を飲んだだけでもそのまま呼吸が止まってしまいそうなほど激しくむせてしまうのに、バニラアイスを飲ませろと無茶を言うので(しゃべれなくなっていたので、実際は筆談でしたが)、先生がしばらくやめておいたほうがいいって言っていたよと言い聞かせると、飲んで直すんだと答えました。水を飲んだだけでも苦しむのに。そのうえ腸は動いておらず、食べたものは皆管から出て行ってしまうのに。胃から吸収できるものもあるはずだというのです。
その気迫にみんな絶句でした。
ひどく体が火照って唇が乾くらしく、水を含ませたガーゼで始終顔を拭いていたのですが、手がうまく動かなくなってきたので、代わりに拭いてあげようとすると、自分でやる訓練をしているのだから邪魔をするなと怒られました。
とにかく、最後の最後まですさまじいほどの意志の強さでした。
父は全身全霊で、最後まで決してあきらめるな、己の人生を決して何物にも明け渡すなと語っていました。
私たちには決して後ろ向きの姿を見せない父でしたが、同時に覚悟もしていたようで、担当医にはあらかじめ「がん患者がどうやって死ぬのか知っている。家族は苦しんでいる自分を見て、かわいそうだから眠らせてあげてくれというかもしれないが、何も分からないまま死ぬのは嫌だから、最後まで意識は保てるようにしてほしい」と頼んでいたそうです。
途中で先生に診療室に呼ばれてその話を聞かされた私たちは、「そりゃ酷だわ、父ちゃん、、、」と泣いてしまいましたが(妹とハンカチの奪い合いに。病室に戻るときは、泣いたことを父に悟られないように化粧直しするのが大変でした)、それが父の望みならと、覚悟を決めて、最後まで父の意思を、父の言葉を聞き取ろうとあらゆる手を尽くしました。声を出せなくなったら筆談で、ペンが持てなくなったら文字盤を用意し、細かい文字を差せなくなったら、コミュニケーションボードを手作りし、視線の向きで意思を読みとることができるという透明文字盤も作りました。
危篤状態になってからも、奇跡的に意識を取り戻してくれたので、その間、庭から摘んできた、父が丹精込めて育てた花を見せたりしてみんなでずっと話しかけていました。まだいっぱい庭につぼんでたよと言うとうんとうなずいてくれました。
父は望み通り、最後までしっかりと意識を保ったまま逝きました。
本当に父らしい死にざまでした。人は死ぬとき何もかもなくしていくけれど、なくしていくたびに、逆にその人らしさがより一層際立っていくように思います。死の床の父は本当に純粋な父そのものになっていました。外見は骨と皮ばかりになっていたけれど、何一つできなくなってしまっていたけれど、私たちは父を愛していました。平らになっていく心電図の波を見ながら、いかないでと叫んでいたとき、私たちは確かに父を愛していました。美しくもなくなり、お金も稼がなくなり、何も生み出さなくなり、何もかもなくしたときに、愛してくれる人がいるかどうか、それが人生の豊さを決めるとしたら、父はとても豊かな人生を送ったと言えると思います。
とにかくこの二ヶ月間よく泣きました。まだ心の整理ができたとはとても言えないけど、とりあえず、
新盆が終わって、また帰っていくお父さんへ。
あのレインボー迎え火、気に入ってくれた?お父さんって、わがままで、怒りんぼで腹立つとこいっぱいあったけど、今度ばかりは心底見直しました! 今回いやでも分かったと思うけど、みんなお父さんのこと本当に愛してるよ! また来年ね!
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