盛りだくさん

気が付けばまた一か月近く放置してしまいました。 もちろん、その間も活動していましたよ~。そうそう、先日お手伝いしたノンフィクションの本も出版されました。昨日本屋さんで平積みされているの見て、ちょっと感慨が・・・。まああ、こんなに立派になっちゃって(なんて(^<^)・・私が訳したのはほんの少しですが)。献本も、無事届きましたよ~。ありがとうございました(^^)/(とても紳士な方なので、お礼メールをすると、殺人的にお忙しいのに無理してメールをくださっちゃいそうなので、こちらでお礼に代えさせて頂きます) 

タイミングが合わず、なかなか会えずにいたともだちにもようやく会えました(*^_^*)
積もる話がありすぎて、河岸ならぬ喫茶店を転々と変えて、7時間ぶっとーしでしゃべりまくり! 大好きな友達に会えて、しっかりエネルギーチャージできました。(次の日しゃべりすぎてちょっと頭が痛かったけど・・・)うん、やっぱり、ワクワクしなきゃ、だよね。帰り際ハグされて、ちょっと泣きそうになったよ。(そういうことすると、今生の別れみたいだからやめよーよ…(T_T))

そうよ、人生、ワクワクよ~!ということで、ひきつづき、YA本読みまくり・未訳原書発掘ツアーに参加(勝手にタイトルと主旨を変えてますが・・・)、2冊目の本を読み終え、感想・あらすじもアップ。

契約書の課題もどうにか、提出。むずかしーい。っていうか、こいつら・・・どこまで主語やねんっ!ってどつきたくなるね。翻訳というより、算数の問題でもやってるみたいな。。速攻B級行くとか大口叩いてすいませんゆっくり、じっくりやることにします。

ミステリーの訳文チェックも続行中。違和感を言語化するのは勉強になる。じわじわ効いてきそう。

いやー、こうして挙げてみると、結構盛りだくさんだねー。今はゼミがお休みだからいいけど、ゼミ課題も入ってきたら回せるかな~

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で、②

で、②ですが、並行してビジネス翻訳の勉強もはじめようかと思っています。先日ゼミに来て話してくださった編集プロダクションのかたもおっしゃっていましたが、文芸翻訳の場合、新人にくる仕事というのは、やはり「間に合わせ」的なものになってしまうそうです。すごく急ぎとか、納期がめちゃめちゃきついとか。(←自分でも体験済み))で、断ったりするとあっさり来なくなると。どうかんがえても、フルタイム職場にいなければならない人間には無理だわー。少しでもチャンスを生かすためには(もうないかもしれないけど)やはり、独立していて、仕事の日や、仕事量をフレキシブルに動かせるのが望ましい、っていうかそうでないと無理そうです。(専業主婦という選択肢は、ありえないし、出版翻訳一本ていうのも、少なくても私のスピードでは、経済的にきつくなりそうなので。同じ方のお話によれば、新人の生きのびる道は、とにかく数をこなすか、一発当てるかだそうです…) 今の職場は本当にいいところで、何ひとつ不満もないのですが(今、阿鼻叫喚の地獄絵図のごとき相方の会社を見ると、ほんとに恵まれていると思う。まるで天国…)、いろいろ頑張って、万が一、文芸翻訳で自分の訳書を出せるチャンスがめぐってきたとして、時間的な制約のために断らなければならなくなったらと思うと血の涙が出そう…。いままでは腕を磨くことばかり考えていて、こころおきなく出版系の翻訳に携わるための環境を築いてこなかった。翻訳書をめぐる環境がこの十数年でだいぶ変わってしまったので、そういった準備しようと思わなかったのは、しょうがないところもあるけど。本の翻訳だけでも十数年前なら何とか食べれただろうし、新人もここまで参入しづらくはなかったと思う。出版社に、新人を育てる余裕もあっただろうし。でも、状況が変わったなら、それに合わせて自分も変わっていくしかないですよね。今からでも遅くない、どうせ、次に文芸翻訳系のチャンスがくるとしたら、きっとだいぶ先でしょうから、こうして準備が出来るあいだに、少しでも自分の選択肢を広げる努力をしていきたいと思います。本当に自由に生きるためには、それなりに準備も必要なんだなーと、最近思います。ジャンルはやっぱり馴染みのある法律にしようかと。10年近く前にやりかけていた通信講座をもう一度取るつもりです。B級で五回A判定をとると、A級進級することができ、A級でA判定を5回取るとプロ級へ、という具合に進級できるようになっています。で、プロ級で認められるとその会社の翻訳者として登録できると。よくある釣り文句みたいだけど、嘘ではなさそう。事務所でも使ってみたことがあるけど、翻訳者もまともだったし。10年前は1年間くらいやっていて、A判定もいくつかとって、もう少しで進級というところだったんですが、今のゼミでリーディングをさせていただいたりして、文芸翻訳が本当に面白くなってきたところだったので、すっぱりやめてしまいました。もってた辞書類もアマゾン等で売り飛ばしてしまったから、また買いなおし。少し前からテキストを読み返しています。しっかり読みこんだら、6回パックの通信コースを申し込み、連続でA判定とって即効、B級に行くつもり。10年前よりは遥かに英語力は上がってるはずだし。やればできはず~←これを書いてからしばらくして、えいやっと申し込んでしまいました。しかし、簡単な第1回からまた始められると思っていたのに、10年前に10回まで終わらせていたので、課題はその続きからになるらしく…難しいじゃないのよ。。。それにやっぱり時間がなかなかとれないなー。①のサークルでは早速1冊読み終えて、簡単なレジュメかいたけど。。。契約書ってそんなに楽しい翻訳ではないのでついつい後回しにしがちになっちゃうのよね。でも、お金がかかってるのだから元は取らなければ!

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今年の目標 おそまきながら

自分の書いた記事を読み返してみたら、最近なんだかちょっと後ろ向きな発言が多い気が。
ひとのせいや環境のせいにしてない?
そんなことをしていても状況は何ひとつ変わらないわけだし、とりあえず、自分にやれることをやるしかないよね。
ここはひとつ前向きに考えて、いまさらですが、今年の目標を立ててみようと思います。

①児童文学系の翻訳ができないか、考えてみる、行動してみる。

お正月、妹の子供たちと接していて、いまさらながら、じぶんに子供と遊ぶ並々ならぬ才能があることに気づいてしまった・・・というのは、まあ、冗談ですが、子供と話が合うのはたしか。たぶん、精神年齢がいっしょなのでしょう。(妹にもいわれてしまった)子供のころから童話を書いていて、高校生、大学生あたりではYAのようなものを書いていたので、むしろ、最初からそっちに行った方が流れとしては自然だったんですが、おそらく自分には子供が出来ないということがわかってから、なんとなく童話を書く資格もないような気がしてしまって(もちろん、そんなことはないってことは頭ではわかっていましたが)、翻訳のほうもそっちの分野を選ぼうという気にはならなかったんですが、なんか、めいっこたちと遊んできて、ふっきれた感じ。子供いなくったって、こんなに子供と気が合うじゃん。やっぱり、好きなんじゃん、こっちの世界って。実家の自分の部屋で、コレクションしていた絵本をめくったりしながら、そういえば大学のとき、早稲田祭で、私が作った絵本を子供たちに見せたいから、譲ってくれって言って下さった幼稚園の園長先生がいたよなー、子供たちが奪い合って読んでいましたって、後で、お礼のお手紙をくれたよな―なんてつらつら思い出していたら―むしょうに帰りたくなってしまった。
前置きが長くなりました。うん、やっぱり好きなことしよー。向いてるとは思えないノンフィクションやって、イッパイイッパイになるより、そのほうがいいよね。児童書やYAなら、薄くて英文もやさしめだから、今の仕事をやめずに両立できるかもしれないし。なによりも昔から馴染んでいた世界だから、本を探したりするのもぜったい楽しいはず。楽しいっていうのが一番モチベーションになるのよね。うんうん。

長くなってしまったので、②以下は次の記事で~(とかいってまたしばらく放置しそうですが・・・)

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ちょっと復活

ちょっと弱気になりすぎてたので、前回の記事は削除。よくよく考えれば、失敗したのが、仕事のときじゃなくて良かったではないか。性的表現にとことん弱いなら、児童文学とか、そーいうのが絶対出てこない分野に行くという手もあるし。(ああ、でも、そーすると、ハーレクインとか無理ね)。もともと、童話、ヤングアダルト系の物を書いたりしていたこともあって、おつむがあまりアダルト仕様ではないのよ。(こないだなんて、寝ながらニタニタ笑っていた私に、オットが「どうしたの、うれしそうだね」って声をかけたら、ものすごく幸せそうに、「うん、これからアイス食べるの♡」とか寝言返したらしいし…おまえは四歳児かっっ(-゛-メ))性的表現を読みとれなくて失敗したのは恥ずかしかったけど、逆にまったく性的な表現でもなんでもないのに、性的表現だと思い込んで訳してたらもっと恥ずかしかったぞー、たぶん。(そういえば、エル○イのときはそういう事故が多発してたわねー。)とにかく、翻訳で失った自信は、翻訳で取りもどすしかないよね、うんうん。というわけで、とりあえず勉強会の方で頑張ってきました。こちらは、とにかく課題が難しくて、みんな四苦八苦してるので、誤訳が目立たなくていいわー。…ってそんなこと言ってる場合ではない! なんとか誤訳をなくしたいものです。そのためにと、去年から文法の本も繰り返し読んだりしていたのだけど、自分が、文法で間違えているときというのは見落とし系が多く、こういうのは注意すれば大部分が避けられるんですよね。より深刻なのが、思いこみ系の誤訳。これをやっちゃうとほんとに落ち込む。どんだけ小説読めてないんだろうって。こういうときは、自分以外の人たちはちゃんと訳せていることが多いので、余計にがっくりです。思い込んでるときって、無理やり自分の訳したい方向にねじ曲げて訳しちゃうんですが、自分がそれをやっているという自覚がない。しかも、それなりに翻訳を勉強してきたおかげで、日本語としては違和感なく仕上げられちゃったりするものだから、後から読んでもまるで気づかなかったりする。しかし、振り返ってみると、たとえかすかではあっても、必ず、レーダーに何かがひっかかってるんですよね。それに、ねじまげなければいけないこと自体がおかしい。日本語として表面上、上手くいっているようにみえても、ぐっと引いて大きな流れで見れば、絶対に齟齬が出ている。こういった数々の信号をしっかりつかまえて、引き返すことが大事なんだけど、それが難しいんですよねー。とにかく、まだまだ未熟すぎるので、担当の編集者さんが異動になって、○○書房と縁が切れちゃったのは、逆に自分を鍛え直す好機と考え、頑張っていこうと思います。環境も整えないとなー。ちょっとかじってみて実感しましたが、文芸翻訳に限らず、本の翻訳の仕事は、フルタイムの仕事と兼業するのは難しい。自分の翻訳スピードが奇蹟的にアップするなら別ですが。突然降ってくるリーディングの依頼や、締切が急な短編の仕事にも対応できず、対応できる人に、まわってしまう。かといって、専業でやるには、収入面が厳しすぎる。兼業にせざるを得ないけれど、自分のスピードだと、専業にしても間に合わないくらい。。。ジレンマですな。この不景気で、相方の収入は大幅ダウン。下手をすると倒産しかねないようすです。そういうわけで、いざとなったら、専業にしてもいいと言ってくれたのは、もう、過去のこととなってしまいました。師匠から、ノンフィクションのほうでも、積極的にチャレンジしてみるよう勧めてはいただきましたが、今の仕事をやめない限り、たぶん本の仕事は受けられない。中途半端に関われば、紹介した先生に迷惑をかけてしまうことに。ああ、収入を考えずに翻訳に打ち込める立場の方がうらやましい…など嘆いていてもしょうがないので(いまどきそういう立場の人もそうそういないでしょうし、みんな同じように苦労して、工夫して翻訳の仕事をしているのだと思います)、とりあえず、翻訳のスピード、中身について、自分を鍛えつつ、なんとか関われるような環境を作っていきたいと思います。

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震災以来

今回はかなりのご無沙汰でした。あの大震災以後、初めて書くんだと思うと、何か気のきいたことを書かないといけないような、妙なプレッシャーもあったりして・・・
あの地震のときには、職場にいたのですが、一瞬、これで終わりかと思いました。今思えば大袈裟だけど、あんな揺れを経験したのは初めてだったので。結構やりたいこともやってきたし、しょうがないなー、せめて最期の時が痛くないといいけど・・・ああ、でも訳書が一冊もないまま死ぬのかー、等という思いがくるくると脳裏を駈け廻ったのを憶えています。私のまわりの人たちは幸い皆無事でしたが、そのあとも、原発事故とか、買占めとか、なんだか、真綿で首を絞められているような、息苦しい空気が続いていましたよね…。
原発のことも片付いたわけではないし、現状はそれほど変わってはいないのですが、ようやく(表面的には)元の生活にもどりつつあります。
でも、日本人の心のなかでは、何かが変わりつつあるように思います。今回の震災は本当にひどい災難でしたが、自分にとって何が大事なのか、改めて考え直すきっかけにもなった気がします。自分の命というものが、いつ絶たれてもおかしくない、儚いものだということに気づかされ、ちょうど余命を宣告されたときのように、自分の生き方というものを考えさせられたというか……。なんだか、大袈裟になってきましたが、ふと思い返せば、やりたいことも定まっておらず、コンピューター翻訳とか、契約書翻訳とか、いろんな分野を彷徨っていたあのころ、私の気持ちを定めるきっかけになったのも、手術という「災難」でした。ガンの患者さんたちと同室になり、いろいろと考えさせられました。隣のベットのひとが、自分と同じ卵巣のう腫だったのですが、手術の日、なかなか病室に戻ってこなくて、結局それがガンだったと聞いて、自分のおなかの中にあるものもそうなのではないかと、手術の前日は、不安で夜も眠れませんでした。本当にやりたいことを、後回しにしている場合じゃないんだと、身に沁みて思いました。それ以来、迷いが吹っ切れたというか、思いは自然と文芸翻訳一本に定まりました。何かの本で、そういったきっかけを「目ざまし」に例えているのを目にしたことがありますが、言いえて妙ですね。今年、お盆に帰省するひとは、例年よりもだいぶ多いのだそうです。大事な物はなにか。日本中に「目ざまし」が鳴り響いたのだと思います。
 五年程前に、「余命一年ならやりたいことリスト」というのを作ったことがあるのですが、ここ最近、妙に作りたくなって、あらためて作り直してみました。(きっと今度の「目ざまし」のせいですね)当時、流行っていた手帳術か何かの本で見て、なにげなくやってみたのですが、これは自分の価値観が、見事にあぶり出されるので、やってみる価値ありです。感動的な本を山ほど読んで、映画も山ほど見たい、心洗われる体験をしたい、そしてその感動を伝えたい。絵を描きたい、人の心に残る言葉を伝えたい等々…五年前と今と、ほとんど変わってはいなかったのですが、今回作ってみて分かったことが幾つかありました。まず、ポイントは感動だということ。感動というのはひとによって違うし、超個人的な体験に過ぎないのかもしれないけど、何かを見たり、読んだり、体験したりして感じることは、ほかのだれも代わりにできない、いわば「私」そのものなんですよね。だから、残された命があまりないと考えたとき、そこにこだわるのだと思います。(自分の命を継ぐ子供という存在があったら、きっとだいぶ違うんでしょうけど。)それから、リストにあげたもの共通点から、自分が本当にやりたいことというものも見えてきました。(絵にしても、小説にしても、俳句にしても、翻訳にしても、)どうやら、世界を自分の目で捉え直して、それを再構築したい、そしてそれを伝えたい……らしい。それさえ、しっかり押さえていれば、きっと軸がぶれることはないと思います。(といいなあ、願望込み。折りにふれて肝に銘じたいと思います)

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誰も奪うことのできない財産

茨城より帰還。寒かった―。ご飯のとき以外は、お部屋でお布団に入ってぬくぬくしていました。しかし、寝てばっかりいたはずなのになんでこんなに疲れるのかしら…。やっぱり、いくらよくしてもらっているとはいえ、自分の実家とは違うからなー。オットは子供に帰ったように、たのしそーでしたが。

誰も頼りに出来ないのだから、とにかく今はお金を使わず、老後のためにしっかり貯めておきなさいと繰り返し諭されました。子供ができないことであれこれ言われたことは一度もないし、本当によくしていただいているし、こんなに心配掛けて申し訳ないなーと思いつつも、うちの母とはあまりにも考え方が違うので、ちょっと違和感も感じてしまった(ごめんなさい(>_<))。母の口癖は、「楽しみなさい。ふたりで思い出を作りなさい」。いつも、無責任なくらい、あっけらかんとそう言う。オットは逆にそういう母の言葉に違和感を感じるようで、「そんなこと言われても、楽しむだけ楽しんであとでお金がなくて困ったらどうするだー」と言うのだけれど、わたしはそんな母に育てられたせいか、妙にのーてんきなところがあって、それでいいんじゃない、と思ってしまう。

ワンダー・ワンダーという、世界中の珍しい光景を紹介する番組があるんだけど、(たしか、NHKだった。今もやってるのかな?)素晴らしい景色のVTRが流れたあとに、コメンテーターとして招かれていた荒俣宏さんが語った言葉が、今でも胸に焼きついている。(肝心の美しいVTRのほうは忘れてしまった…)荒俣さんは、旅をして、そういう素晴らしい景色をたくさん見なさいという。そうして心に刻まれた光景は、無一文になろうと、牢獄に入れられようと、消して消えない。どんな権力者も奪うことのできない財産なのだと。

本当にそうだなーと思う。風景に限らず、良い本や映画との出会いもきっとそう。最低限生きるお金は必要だろうけど、いいもので心の土壌を耕し、豊かにしておくことができれば、何がなくとも幸せでいられるんじゃないかなあ。「潜水服は蝶の夢を見る」の主人公ジャンが、自分の体という牢獄に閉じ込められたとき、生きる希望を失わずにいられたのも、荒俣さんのいう、「誰も奪うことのできない財産」をたっぷり蓄えていたからだった。むしろ、年を取って、体の自由が利かなくなってきたときこそ、そういうものが生きてくるんじゃないだろーか。

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引退しようかな…

といっても、翻訳じゃありません。お酒です。

毎回、授業の後の飲み会で飲む、例のアレ。グラッパ。

翻訳のクラスでは、最後にクイッとひっかけて締めるのが、定例となってるんですが、

前回の授業は久しぶりだったので、つい嬉しくて飲み過ぎてしまい、

最後のアレが格段に効いてしまって……。

大丈夫、大丈夫と言い張っていたのは覚えてるんですが、

よっぽど呂律がまわっていなかったのか、

ゼミの先輩に、家までタクシーでおくってもらうことになってしまい。

(よくおぼえてないけど、師匠命令が飛んでたような気も・・・すいません、○○さん!)

一体タクシー代いくらになったんだろう。怖くて聞けないよー。

せめて、独身のかわいいピチピチギャル(死語)なら、おくりがいもあったでしょうに。

ああ、もう、西東京方面には、足を向けて寝られないわ(>_<)。

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遅まきながら、あけましておめでとうございます。

ああ、また放置してしまった。

あけましておめでとうございます。お正月中は、ツレの仕事があったので、どちらの実家にも帰らず、うちでのんびり過ごしていました。DVDをまとめ借りして、映画三昧(*^_^*) (といっても、5本だけですが。「アリス・イン・ワンダーランド」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「ライフ・イズ・ビューティフル」「シャッター・アイランド」「インセプション」)

もちろん、本も読みました。本も映画も、芸の肥やしですからね~。

ジェフリー・ディーバーの「ロードサイド・クロス」とミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」

ディーバーは相変わらずのどんでん返しぶりでしたが、今回はなんとなく犯人がわかってしまった。馴れてきちゃったのかなあ。(それにしても、うまくだまされると、爽快な気分になるのは、どうしてなんでしょうね?)でも、テーマは面白かった。ネット社会への警鐘を鳴らしています。バーチャルな世界に存在する自分は本当の自分なのか? ネット上の自分のイメージを作る(守る)ために、必要以上に演技してしまったりして。本当の自分以上にスバラシイ人になってしまい、それに酔ってしまう危険性もあります。わたしもブロガーのはしくれなので、なんとなくわかります。自分を人目にさらすことで、がんばれるっていう部分もあるけど、あのチルトンくんみたいに、自分の心のよりどころがブログだけ、になってしまったらやっぱり怖いよなー。―と、まあ、そこまではありがちなネット批判で、そこで終ったら、安っぽいドラマみたいなんだけど、ディーバーの面白いところは、プラスの面もしっかり描いているところ。バーチャルの世界に行こうがどこに行こうが、人間の根っこが変わらないこと、やはりそこにも、温かな人間の触れ合いがありうることをちゃんと描いてる。それが人気作家たるゆえんなのですね。

ミランダ・ジュライの「いちばんここが似合う人」は、打って変わって純文系

ちょっとおかしな人たちがたくさんでてきます。昔よく読んだ「銀の匙」を思い出しました。作者が若いせいなのか、それが純文学というものなのか、瑞々しい感性で、自分の内側を見つめ、心の奥へ奥へと入っていく感じ。そして、つきぬけて、広大な宇宙に出てしまうような、不思議なお話でいっぱいでした。結構好きかも。これ。

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うーん、男脳が無い。。。

今ゼミの授業でやっている課題は、お師匠様の真骨頂が味わえるノワールの傑作なのですが、もの凄く男っぽい乾いた文章で、それがまたかっこいいのだけれど、私の文体とは対極にあるもので、苦労しております。前回の当番もぼろぼろだったさー。へたに誤訳するより、物語の背景を無視した訳をつけちゃったときのほうが落ち込むよねー。話が読めてないってことだもの。しかも、お師様に、訳文が江戸言葉っぽいと言われてしまった…。カッコいいはずの○○○○が、熊さん、はっつあんに・・・・・・(T_T) ひとつひとつのご指摘がグサグサと胸に刺さったけど、今後のために言ってくださっているのがよくわかり、ありがたかった。(痛かったけど…)肝に銘じなければ~。

と反省していた記憶もまだ新しいのに、また当番が回ってきてしまった…。(上の文章は前回の当番直後、書きかけていた記事。書き終える前に当番をやるはめになるとは。難解きわまる課題のせいか、出席率がガクンと落ちているので、すぐ回ってくるのよ。逃げ切ったと思ったのに…来年まで逃げ切れれば○○○ティーだったのに。ちぇ)

しかし、本当に男っぽい文章は苦手。論理を積み重ねていくようなのも苦手。徹底的に男脳がないらしい。YAのような、感情を描く、女脳jタイプの話は得意なんだけどなあ。って…これってミステリーやるうえではかなりまずくない?

中高時代アガサクリスティーばかり読んでたのがまずかったのかも。男性作家のも読んどけばよかった。今からでも間に合うかなー。浴びるように読まなければ。

というわけで、少し前から短篇集を買いあさって読んでいます。○○書房のアンソロジーは全部揃えるぞ。

ついでにご無沙汰中に読了した本もメモ。備忘録用に。

・「エドガー賞全集」 同じエドガー賞なのにどうしてこう毛色が違うのかと思ったら、選考委員が毎年変わるんですってね。(って常識?)羽田詩津子さんの訳が上手かった! ローレンスブロック、好み。長編読んでみたくなった。(短編17編)

・「十二番目のカード」(上)・(下)ジェフリー・ディーヴァー

 相変わらずのどんでん返しぶり、いつも通り、すっかりだまされました。

 黒人社会の若者文化、しゃべり方の違いについて描かれているのが興味深かった。

・「コーパスへの道」デニス・ルヘイン 不条理なんだけど、結構好きなタイプ。「ミスティックリバー」、「シャッターアイランド」等の長編で有名だけど、短編もすごくない?短いのにしっかり薫り高いノワール。才気あふれるって感じ。「グエンに会うまで」「コロナド」が特によかった。(短編7編)

・「町長選挙」奥田英夫 伊良部先生シリーズ。明らかにホリエモン、明らかにナベツネらしき人物たちがモデルに。でも、例によってちょっぴり心温まる感じに描かれているので本人たちも怒る気にはならないのでは?

フィクション以外

・「頑張らない生き方」香山リカ 

・「なぜ君は絶望と闘えたのか」 光市の母子殺害事件のノンフィクション 作家さんの文章には、ところどころ突っ込みたいところもありましたが、とにかく被害者の遺族、木村さんの人格にただただ打たれました。

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ご無沙汰してました

すっかりご不沙汰してしまいました。ご無沙汰中にもいろんなことがありました。友だちのガラス展に行ったり、美術館にいったり、洋書の森に行ったり、参加したかった翻訳者の集まりに出かけたり、ipadを買ったり。そう、ipad、買っちゃいました(^^;;。私が我慢できるはずがなかったのよね。熱海旅行にもいってきました。ipadもって。

そうそう、来ないと嘆いていたお仕事もきました。しかし、ものすごい日程。五日(正確には四日半)で短篇一本でした。死ぬかと思った。ストレスもものすごかったのか、締切直前には、クスリの副作用が一気に出て、ちょっと壮絶な感じに。終わったとたんにぴたりと止まりました。人の体って不思議。
しかし、先日の授業後の飲み会で、もっとすごい納期の依頼もあったと聞いてびっくり。何と3日で40枚。ありえん。出版社側にまともなものを作る気があるのか、ちょっと疑ってしまうわ。
新人にはそんなのしか来ないんでしょうかねー。

今回痛感したのは、とにかく自分は訳し足りないということ。もう学習者気分は捨てないといけないということ。責任を持たないといけないということ。今までのやり方は変える必要があるということ。これまでは、とりあえずは盲目的に日本語に訳してから、一文一文検討して流れを整えていくやり方だったのだけれど、それではとても間にあわない。原文の段階でポイントをつかんで、最初から肉付けしていくつもりでいかないと。(いまさら?)まず、キャラをガッチリつかむこと。そうすればセリフや、形容詞の方向性が自然と決まります。迷わないですみます。類語辞典や文法書も、悠長に調べている暇がありません。対訳のデータを作っていたのは役に立ちましたが、最後の方は引く余裕もなく・・・。とにかく辞書など外のものに頼るのではなく、自分の中にしっかり根付かせておかないと、実践ではなかなか役に立ちません。

普段から浴びるように読んで、語意を増やし、文法知識も揺るぎないものにする努力をしておきたい。自分が訳す可能性のある短篇をたくさん読んでおきたい。そしてとにかく、訳すべし、訳すべし、訳すべし。いつも授業で、部分的に訳しているだけですが、それでは、流れを読み取る練習にはならないし、絶対的に量が少ない。短編を丸々訳すなどして訓練を積まなければ。

先日、高名な翻訳家とお話しする機会があったのですが、昔は出版社に、翻訳家を育てるという余裕があったそうなんですが、いまは、そんな余裕もなく、翻訳学校である程度出来上がった人を引っぱってきて、仕事をさせてみて、だめだったらすぐポイというのが現状なのだそうです。わたしもポイ候補だわ。しかし、ただでさえ経験が浅くて失敗しやすい新人に、やたら納期のきつい仕事しか回ってこないなんて、しかも、それで失敗したらポイなんてあんまりだ・・・。次に仕事が来るとしても、まただいぶ先なんだろうけど、気持ち的にはかなり焦っています。早く成長しなければ、絶対この先続かない。訳さなきゃ、訳さなきゃ、訳さなきゃ。

というわけで、ブログは更新が滞りがちになるかもしれませんが、頑張っていると思って見守ってくださいませ。(ポイされて、この道をあきらめてるかもしれませんが。)ツイッターではときどき呟いてると思います。

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