しばらく、お手洗い本兼お風呂本となっていた、「ベストセラー小説の書き方」(ディーン・R・クーンツ著)、読み終わりました。(いや、ベストセラーを書こうとか、そんな大それた野望があるわけではないです・・・念のため。)作り手の気持ちがよくわかり、文芸翻訳を勉強する上では、とても参考になる本だと思います。Dog earがたくさんできました。備忘録もかねて、参考になったところを幾つかご紹介します。
・アクションシーンで使用する動詞
作者は「アクションシーンを書くときには派手で緊迫した動詞がアクションを盛りあげ、引きしめる」として、自分の作品を例に出し、便所を「離れた」ではなく、「体当たりした」、戦闘機が「飛ぶ」ではなく、「弧を描く」、爆弾を「落とす」ではなく「ぶっ放す」などとして、強くて動きのある動詞をなるべく使うようにしたと書いています。(作者がここで例に挙げた小説にはコメディータッチでもあったので、とくに派手な動詞を選んだようです)但し、こうした動きのある動詞をセンテンスごとに使用すると、甲高いばかりの一本調子な文章になってしまうので、乱用せず、文章にリズムを持たせるべきだとしています。
―作者がこれだけ、動詞ひとつの表現に気を配っている以上、訳者は、妙な訳語を当ててその気配りをぶち壊したりしないよう、細心の注意を払わないといけないですよね。
・舞台設定
ある作品が例として挙げられ、舞台設定が作品に与える効果について述べられています。作品の舞台となったキャッツキル地方は、かつて数多くのエンターテイナーを輩出し、ギャンブルで栄え、不況の波に飲み込まれていった土地なのだそうえす。いわば、破れた夢、失われたチャンス、果たされなかった約束のシンボルであり、精神的な破綻から、破滅と狂気の世界に身を落としていく腹話術師にはふさわしい舞台となっている、と作者は説明しています。
また、逆に、ホラーなど非日常的な出来事が起こる作品では、どこにでもある普通の場所に物語を設定し、ふつうの仕事をもつ、ふつうの人々を描くことでリアリティを植えつける手法をとるそうです。そのため、設定された舞台がニューヨークだったとしても、活気に満ちた騒がしい一面については描写が抑えられ、どこにでもある一都市として描かれるのだそうです。
―舞台設定の意味は、訳し始めのときによく考えさせられる問題です。どうして作者はそこを舞台にしたのか。作者はどんな物語にしたいのか。どんな色をつけたいのか。
少し理解が深まった気がします。
・詳細に描かれるシーン
無駄に描かれるシーンはありません(良い作品なら、無いはず)。作者の紹介する、ある作品では、エレベーターの点検と修理のシーンが何度か出てきて、装置の仕組みについて説明されます。このシーンは、エレベーターに乗っている人たちに何か恐ろしいことが起こる気配を読者に感じ取らせる、伏線になっているそうです。
―そんな作家の狙いに気づかず、「エレベーターの説明、ちょっとしつこいよ」なんて、勝手に抜いて訳したりしたら、また作品をぶち壊すはめに。ああ、おそろしや。
・会話での注意点
作者は小説に出てくる会話は、現実生活とは違うので、回りくどくならないよう、要点を述べるべきだといいます。そうでなければ、作品が間延びして緊張感がなくなってしまうそうです。
―訳す立場としても、そういう作家の配慮を汲み取り、要点をついた会話になるよう訳さないといけませんね。
また、この作者によると、会話は、地の文(「と誰々は言った」)がなくても誰のセリフかわかるようにするのが本当で、そうでなければ会話自体に問題があるのだそうです。
―ちょっとこれは意外に思いました。日本の作家は地の文をつけないことが多いけれど、向こうの作家は、結構地の文をつけていることが多く(「わたし」も「ぼく」も"I"なので、誰のセリフかわかるようにするため必要になることが多い)、普段意識してはずして訳しているので。でも、日米問わず、地の文がなくても分かるセリフが望ましいんですね。リズムを壊してしまうことがあるからでしょうか。
この作者も、話し手を明示する必要性がある場合は、9割がた、「言った」「たずねた」で事足りると述べ、強い言葉が必要なときでも、「叫んだ」「主張した」くらいの、風変わりではない言葉を使ってリズムを壊さないように勧めています。(「身震いしながら言った」「躍りあがって喜んだ」などと使うのはアマチュアか、リズムの分からない不幸な人だそうです。きつい・・・・・・。そんな訳をしがちなので、肝に銘じておきます)
―②に続きます。その前に、お当番の反省しなくちゃ。でも、詳しくみるのが怖い・・・・
最近のコメント